こんにちは、まちの大工さん 田口建築㈱ 住宅・住まいづくりのお手伝いを
させて頂いています タグチキヨミです。

タグチキヨミ
S51.6.14生
住まいづくりマネジャー

実は先日ホームページ(HP)がリニューアルしてました。
 今回から地元の業者さんに丸投げでお願いしました(後にご紹介します)、
変に気どらず、ダサくなく、地元工務店らしく、そしてこれが一番大事で
親しみ伝えやすい素敵なHPになったと思います。

今回、「新規一転」という事で私の自己紹介というか半自伝を書いてみました。
前から「書いてみたら?」とアドバイスを頂いてました。
 正直、家づくり・住まいづくり の為にはなりませんが、どうして私が
建築業界に入ったのか? ちょっとでも皆さんと自己紹介を兼ねての距離を
縮めたいという願いを込めて書かせて頂きました。

1.ヒーローになりたい

推定2歳のキヨミ君

 昭和51年 第21回モントリオール・オリンピック開催、
キャンディーズの「春一番」が流行った年(らしいです)、
旧岩手県二戸群浄法寺町に私、タグチキヨミは長男として生まれる。

 幼少期、近所の年上のお兄ちゃんと遊ぶのがだ大好きで
いつも自分より大きな背中を追いかけて走っていた。

戦隊ヒーロー サンバルカン・ダイナマン

仮面ライダー スカイライダー・スーパーワン・ゼクロス

ウルトラマン 80・アンドロメロス

宇宙刑事 ギャバン・シャイダー・ジャスピオン

きりが無いがテレビの前で毎回ドキドキしていた。
「本気でヒーローになりたい」と思っていたのかもしれない。
 ※ちなみに、学校から帰ると必殺シリーズの再放送を見て生涯の好きな役者さんは
藤田まこと(中村主水)さんです(必殺シリーズトークお待ちしてます)

どこかの葉タバコ畑でみんなの前で大声で一人で歌っている記憶がある、
あれは何だったのだろう?

2.子供の遊びは大体はやったtheコドモ

4歳我が子そっくり

 面白いと思ったらのめり込み、駄目と思ったらやめるtheコドモ
野球・ファミコン・プラモ・ラジコン・ミニ四駆・ゴム飛び・ビー玉あそび・
秘密基地作り・自転車などなどベーゴマ以外は全部遊んだと思う。
※月間ムーや心霊現象・七不思議にもドキドキしていた。

 ラジコンは朝4時に起き学校の校庭で早朝5時に集合、
7時に帰り朝食を食べての集団登校な日々を過ごした時もあった。

 自転車はハンドル替えたりタイヤを三輪車のタイヤに変えたりの改造、
発泡スチロールの飛行機にロケット花火を取りつければ飛ぶのでないかとか
「興味ある事はやってみる」はこの時期から始まっていたのだろう。
※結果は失敗しました※今の良い子には絶対にお勧めはしません

3.「まじめ」が嫌い、カッコ良いか悪いか

小中は野球少年
(根は今も体育会系)

 「まじめ」この言葉が大嫌いだった、正確には「キヨミはマジメだから」
のフレーズを散々言われた、馬鹿にした様な表現だと感じていた、

「マジメってなんだ?自分は思うようににやっているだけなのに」と。

児童会長・室長(クラス長)・野球部部長と小中学校はやった、やらされた?、そのせいか高校以降は自分を隠すようになった。

 自分にとっては正しい悪いかより「かっこいい」か「かっこわるいか」の2者択一、今もこの選択は変わっていない。

 ギターを始めたのもこの理由、某ギタリストが踊って弾いている姿が単純にカッコく14歳の時ギターを手にした。
 ただ練習は大嫌い、今もギターの個人練習は嫌いである、このせいで今もギターは全くうまくない。

4.このままじゃダメだ、だれのせいでも無い

野球部主将だったような…

 高校進路、自分には行きたい高校があった、理由はバンド、動機は不純。
しかし進路決定の直前の共通テストで酷い点数をとった私は
志望校を諦め自動的に地元の高校を…受けなかった。
 それは市外の私立高校を受けて合格していて
周りの大人の「思惑」で説得されるのが嫌であえて受けなかった。
※後で聞いた話、それでも志望校行けていたよと言われ驚愕!

 別に人間関係が悪かった訳でも無い、むしろ楽しかった。
ただ先生からは「あいつ等とは…」とはよく職員室に呼ばれ言われていた、
コレは本当に苦痛だった、友達を否定=自分を否定されているようだった。
 ただ「今のままじゃ自分はダメだ」となんとなく思っていたのも事実、
なにかしなければと当時は悩んでいたと思う。

全ては自分の人生、これからも先も自分の人生

と思い初めて親に頭を下げ「行かせてください」と私立の高校に行く事になる。

5.友達って…実は料理人に…

髪型は実は…パンク少年(笑)

 高校生活、よく聞くのが「一生の友達が出来る」や
「一生の宝物(時間)」と言われるようだが、自身として実はあまり記憶が無い。
 下宿生活、学校生活、人間関係など楽しくそれなりの経験もした、
今も連絡とれる大事な友達もいるが、高校生活自体は楽しい記憶が無い、
今でいうカースト制度があったのかもしれない、しかし自分は上にも下にも属する事も
無くただただ仲良く過ごしていたそんな感じでいた、
それは前に書いた自分を閉じ込めて隠していたからなのかもしれない。

 ただ高校入学当時一人ぼっちの頃は「友達」のありがたみを凄い感じた、
友達の作り方なんてそれまで全く考えた事無かった、
どう作って良いのか今もわからないが今思えば何とかなったと思う。
 そんなサバサバした三年間、進路の時期がやってきた。
これといって決めていなかった、安直な考えであったが上京希望はあった。

 なんでもいいから上京したい、その思いで公衆電話から親には

「料理人になりたい」

と伝えた事を今思い出した、

料理は自分で作り食べる程度で好きだったし(今も作ります)、
ホント安易な考えで発した言葉だった。

ただ親の即答の「やめとき」の一言ですぐに諦めた、
中身のない想いだったから諦めはすぐ着いた。

弾いたふりをしていました

6.特技は立って寝る事が出来ます

 上京し建築の専門学校に行く気満々が、出資する親の一言で
仙台の建築の専門学校に行く事になる。

 最初の一年は寮生活で通学時間は市内通勤なのに一時間、
おかげで電車で立って寝る事が出来るようになっていた。
あぶなく知らないおじさんの頭にヨダレを垂らしそうになった未遂事件
もあった。
 専門校入学、イチから友達作り、この時も偶然が偶然をよび
なんとか友達は出来た。

 学校も卒業が近づき進路の時期、周りのスーツにネクタイ姿が目につく、
自分はバンドをやり切りたい思いがあり終活はしなかった。

 ただ親には専門学校を入れてもらった恩もあり
専門校に入った証だけ残したいと思い建築士の資格を取った。
12時間バイトをしながら生活費を稼ぎ勉強し取った。 つづく

次回 7.10代・20代、人前で2度ホンキで泣く お楽しみに